人生VR映画説 ~「自由意志」が存在しない世界~

 この記事は科学的に何かを検証したものではなく、個人的な経験と思考に基づき「自由意志」は存在しないという自らの思想を好き勝手に表現したものです。先行研究の調査等も行っていませんし、学問的な議論に耐えうるものではありません。それらしい論理展開に飲み込まれて「これが真実だ」と妄信しないでください。思考実験的または娯楽的な読み物として「へぇ~そうなんだ」「だから何?」という捉え方が妥当です。「ぼくがかんがえたさいきょうのじゆういしろん」です。もっとも、人間に「自由意志」が存在しないのであれば読者の反応や人生への影響は私にも読者自身にもコントロールできないものですし、私がこれを書いたことも必然でしかなく「だれの責任でもない」ということになります。

私の主張

 私の主張は「自由意志は存在せず、人間の意志は遺伝と環境によってのみ形造られる」というものです。この記事は、それを何度も繰り返し、様々な角度から説明することを試みたものです。

自由意志の定義と証明責任

 今、あなたのキッチンには人参とじゃがいも、たまねぎがあります。冷蔵庫には鶏肉と牛乳もあります。そして棚の中には、カレーのルーとシチューのルーがありました。今日は買い物には行けません。あなたはこの状況で「カレーを作る」か「シチューを作る」か、自分で選ぶことができますか。

 この質問に対して、多くの人は「自分で選べる」と答えることでしょう。至極簡単にいえば、これが「自由意志」です。あなたが喉元に刃物を突き付けられて「カレーを選べ」と指示されているなら、「自由意志」はないということになります。では、あなたが昨日まで3日間連続でカレーを食べていて、カレーに飽きていたならどうでしょうか。カレーとシチュー、本当にどちらでも自由に選ぶことができる状態なのでしょうか。「最近カレーばっかり食べていたから今日はシチューにしよう」という選択をしたとき、それはあなたが「自由に」生み出した意志なのでしょうか。ここまで読んでいただけばおわかりいただけたと思いますが「自由意志」とは、多くの人が感覚的に存在を疑わないものであるのに、実は定義すら曖昧な概念なのです。この記事では「自由意志」を「自発的かつ自由に生み出せる意志」と定義し、カレーとシチューの例でいえば「選ぼうと思えばどちらでも選ぶことができる」状態のことを「自由意志がある」ということにします。

 「自由意志」の存在は私が知る限り科学的に証明されていません。人間が意志を持つとき、それは身体の状態や精神の状態、もっと遡れば本人の遺伝的特性や生まれてから現在に至るまでの環境(経験)の影響で形造られているでしょう。あなたが「カレーとシチュー」どちらでも自由に選べるけれども「シチュー」を選んだのか、「シチュー」しか選べない状態にあったのか、前者であれば自由意志があるといえますし、後者であれば自由意志がないといえます。

 では、「自由意志」が存在するかという議論において、証明責任を負うのはどちらの主張をする側でしょうか。多くの人が「自由意志」の存在を感覚的に信じているため「自由意志」が存在しないという説が異説のように聞こえますが、「自由意志」が存在するという主張をする側こそ「自由意志」の存在を証明する責任を負っています(存在しないことを証明するのはいわゆる“悪魔の証明”です)。それがなされない限り「自由意志」とは「神様」や「幽霊」のような、多くの人が信じているが根拠のないオカルトとしか評価できないと私は考えています。

 「自由意志」が存在しないことを直接証明するためには、恐らく人間の意志の形成過程を全て明らかにする必要があるでしょうから非常に困難だと思われますが、「自由意志」が存在しない、という仮定に立って世界を見ると、あらゆることが腹落ちするのです。

自由意志の存在について考えたきっかけ

 私が「自由意志」の存在に疑問を抱いたのはいつだったか覚えていませんが、恐らく小学生の頃です。私はあるキリスト教系新宗教のいわゆる宗教2世として育てられました。その宗教では「人間は全知全能の神によって創造された」「神は人間に自由意志を与えた」「人間は自由意志によって生き方を選ぶことができ、正しい生き方をした者は地上の楽園で永遠の命を得、悪い生き方をした者はハルマゲドンで滅ぼされる」と教えていました(教義についてはかなりの意訳・省略をしており、正確ではありません。今回の「自由意志」の議論に必要な最小限の言及に留めます)。このストーリーの中で「全知全能の神」と「自由意志」が両立し得ないのではないかという疑問を抱きました。

 私が当時抱いた疑問のメインはこの問題ではなく「神はなぜわざわざ反逆する自由意志を持った人間を創造し、その中から自分に従う者だけを救うという謎の自作自演をするのか」「神は自己満足のために世の中に苦しみや悲しみを作り出していて、やっていることが悪趣味すぎて尊敬できない」という部分でした。ただ、この頃「自由意志」という概念は根本に矛盾じみたものを孕んでいるということを認識したことは、その後の私の思想に影響したといえます。

 さて、紆余曲折あり宗教組織から離れた私は大学へ進学しました。納得いかないことが大嫌いだった私は「法学部」を選びました。法律は公平公正であり、世の中の矛盾を首尾よく裁いてくれるものだと信じていたからです。そうでないことがすぐにわかって失望した、という話は今回無関係なので割愛しますが、長年「刑法」の世界において「自由意志(法律の世界では“意志”という表現を用いず“意思”と表記すべきところですが、この記事は法律書ではないことからわかりやすさを優先し“自由意志”で統一します)」が重要な議論の的になっていることを知り、私は再びこの問題について深く考えることになりました。

 簡単にいうと、刑法の世界は「自由意志」の存在を前提に成り立っており「自由意志」が存在しないことになると、犯罪の定義や、刑罰の存在自体の正当性が説明できない事態に陥りかねないのです。刑法の世界では何とか「自由意志」の存在を肯定しようとする説が多数唱えられていますが、私にはどれも無理がある主張に感じられました。  まずは「宗教」と「刑法」という切り口から「自由意志」について私が考えて行ったことをトレースします。両分野とも専門家ではないため、学問的な議論をしようとしているわけではなく(実際には専門家によりさらに深い議論がもっと以前から行われているはずですが、私は思考のきっかけとして利用しているだけです)、あくまでこれらを題材とした思考実験としてお読みいただきますようお願いいたします。

「全知全能の神と自由意志を持った人間」というストーリーの矛盾

 この章では、宗教的観点における「自由意志」について、現在の私の見解を述べさせていただきます。宗教的観点といっても、私が教育されてきたキリスト教系新宗教を中心とした話であり、このテーマに興味がない方は飛ばしていただいて構いません。余談ですが、私は「神」の存在自体を基本的に信じておらず、立場としては「無神論者」または「不可知論者」です。その上で、理屈のみを展開します。

 「きっかけ」の章で述べた、「全知全能の神」と「自由意志」が両立し得ないとはどういうことかまず説明します。私が聖書の創世記を読んで、最初に違和感を持つのは「失楽園」の話です。ご存じの方が多いと思いますが、神はアダムとイブを創造し(イブはアダムのあばら骨から)、エデンの園に住まわせます。エデンの園には善悪の知識の木があり、神は、その木の実は食べてはならないと命じます。しかし、蛇にそそのかされるなどして二人はその実を食べてしまい、エデンの園から追放されます。ここで私が思ったのは「全知全能の神」なんだから(というよりそもそも自分で創ったんだから)アダムとイブがいずれその木の実を食べてしまう(ルールを守れない)であろうことは知っていたはずなのになぜそんなルールを作ったのか、もし神が「え?まさか人間が禁断の実を食べてしまうなんて思ってもいなかった!」なんて思ったとしたらそれは「全知全能」でもなんでもない、「全知全能」と「自由意志」は両立しない概念なのではないか、そう思ったのです。

 聖書の中で展開される「全知全能の神」が創造した「自由意志」を持った人間が、自らその「自由意志」を行使して行動し、その行動を神が評価して「救い」か「滅び」かのジャッジを行う、というストーリーを前提として考えた場合、神は「全知全能」なのだから、どの人間がどのように「自由意志」を行使するのかも事前に知っていたはずです。人間が「自由意志(自発的かつ自由に生み出せる意志)」を持っており、「選ぼうと思えばどちらでも選ぶことができる」状態があるのであれば、「全知全能の神」といえどもどの人間がどのような選択をするかを事前に知ることは(事前に確定していない以上)不可能であり、それは神が「全知全能」であるという設定と矛盾してしまいます(「事前に知ることができるがあえて予知していない」という説明もありましたが、そうだとしても予知が可能であるという前提があれば同じ結論になります)。逆に「全知全能の神」であれば事前に全てが見通せる、という側からロジックを展開すると、ある人間の将来の選択は予めひとつに決まっているはずで、それは「選ぼうと思えばどちらでも選ぶことができる」状態が存在しないことを意味し「自由意志(自発的かつ自由に生み出せる意志)」は存在しないという結論に至ってしまいます。

 現在から将来にかけてを視野に「全知全能」の神という存在を仮定して主観的に物事を考えると、この問題がより見えやすくなります。落ちている財布を発見した私が、それを交番に届けるか、ネコババしてしまうか悩んでいるとしましょう。交番に届ければ善人として「救い」の対象となり、ネコババしてしまえば悪人として「滅び」の対象となるとします。「全知全能」の神が、正しい事前予知ができるのであれば、私の行動は元々その1通りに決まっているのであり「自由意志」は存在しないことになります。「自由意志」が存在するから事前にそれを正しく予知することは神であっても不可能なのであれば、神は「全知全能」ではないということです。私の行動だけでなく他の人間の行動についてもそうなのであれば、世の中がどう展開していくか(それは、複数の人間がどう自由意志を行使するかの組み合わせで変化していく)を含め、神であっても将来何が起こるか正確なことは知り得ないということになります。

 では、なぜ神は将来のことを“予言”し、それが必ず成就するのでしょうか。そう考えると、むしろ、神が事前に計画したとおりになるよう起こっている出来事を強引に捻じ曲げる能力のことを「全知全能」と表現しているのかも知れません。つまり、予言の成就は神による自己成就であり、先のことがわかるのではなく、自らの計画を人間に伝えている“預言”であるとする方が自然です。そうだとすれば、人間の全ての行動は神の都合によって「そうさせられている」わけで、やはり「自由意志」は存在しないということになります。その場合「自由意志」とは人間が「滅び」の対象になるのは本人の心がけが悪いからだと、その責任を(実際には本人に行動選択の余地がないにもかかわらず)本人に帰せるための詭弁であり、神が「殺し」の責任を逃れ、愚かな人間の間違った選択による「自己責任」とするための屁理屈ではないか、としか思うのです。

 つまり、「全知全能」の神は存在せず「自由意志」は存在する、または「全知全能」の神が存在し「自由意志」は存在しない、そのいずれかの結論が自然に思えます。

 この問題は「決定論」を肯定するか否定するか、という論点と密接な関わりがあり、概ね「決定論」を肯定すると「自由意志」が否定され、「決定論」を否定すると文字通りの意味での「全知全能」は存在し得ないことになってしまうという関係にあります。キリスト教の歴史の中でも「決定論」は重要な論点だったようで、長く様々な議論があり「予定説」を支持するかどうかという形で今も宗派により見解が分かれているという状況のようです。

刑法と「自由意志」

 刑法の世界には「責任なければ刑罰なし」という原則(責任主義)があり、犯罪が成立するためには「責任」が必須であると考えられています。「責任」とは何かについては諸説あるものの、概ね「人間には自由意志がある」ので「ある行為を回避する余地(他行為可能性)がある」にもかかわらず、自らの自由意志に基づいてその行為を行ったのだから「道義的責任」がある、というストーリーが前提となっています。つまり「自由意志」の存在が否定されると「責任」という概念が成り立たなくなり「犯罪」はその成立に必要な要素の1つを失ってしまい「刑法」全体が崩壊しかねないのです。

 例えば、お金に困っているあなたの目の前を多額の現金を持った老人が歩いているとします。老人を殴って現金を奪えば、あなたは大金を手に入れることができます。このとき、老人を殴って現金を奪う行為は通常「強盗」という犯罪に当たります(犯罪が成立するためには、構成要件該当性、違法性、有責性が必要ですが、ここでは他の2要件は満たしている前提で「有責性(責任)」の話だけをします)が、あなたはここでよく考えて「強盗」を働くのか、思いとどまるのかを選択することができる、と考えているでしょう。これが「自由意志」であり、「強盗」を働かないという「他行為可能性」があるのに、「強盗」を働くという選択をしてしまった場合、「責任」を問われるということです。これがもし、あなたが「多額の現金を持った老人を見かけたら強盗を働くという意志以外持ちえない」状態であったらどうでしょうか。その時点で「自由意志」による選択の余地がないなら「他行為可能性」は存在せず「責任」が否定され、「犯罪」は成立しないという見解が生じ得ます。そういう人格を形成したこと自体について「責任」があると考えることも可能ですが、これも人格形成段階に一定程度の「自由意志」による選択が可能であることが前提となっているでしょう。 つまり「自由意志」が存在しないという前提に立つ場合、「責任」という概念が消滅します。「責任」が存在しないのであれば「犯罪」も存在せず、現行の「刑法」は意味をなさなくなります。「自由には責任が伴う」とよくいわれますが、そもそも「自由」がなければ「責任」は生じ得ないわけです。

犯罪を例に「自由意志」の存在について考える

 ここまでは、「もし自由意志がなければ刑法は?」というお話をしてきましたが、犯罪という切り口から「自由意志」が存在するのかという点について想像力を巡らせてみましょう。

 例えばこんなストーリーはいかがでしょうか。

 ある強盗犯がいました。彼は幼い頃から貧しい家庭で育ち、親からは虐待を受け、学校ではいじめを受けて育ちました。家には頻繁にガラの悪い借金取りが押しかけ、酒浸りの親からは殴られ、学校では仲間外れにされ、学用品は壊されたり捨てられたりしました。信頼できる大人は誰一人おらず、大事な存在は5歳下の妹だけでした。そんな彼は高校に進学することもできず街をうろついていたのですが、ある犯罪組織の親分に目を付けられました。親分は彼にとても優しく接してくれました。泊まるところがない彼を事務所に寝泊まりできるよう取り計らってくれ、おいしい食事も振舞ってくれました。彼が生きていけるだけの小遣いもくれました。そんなある日、親分は彼に「大きな仕事があるのでお願いできないか」ともちかけます。その仕事は強盗でした。しかし、お世話になった親分から始めて頼られたのです。仕事を完遂すればまとまった報酬を支払うとも約束してくれました。そのお金があれば妹を進学させることができます。妹には少しでもまともな道で生きて欲しい…彼はそう願い、“仕事”を引き受けました。

 彼が強盗犯として有罪判決を受ける条件の一つが「有責性(責任)」です。彼は「自由意志」に基づいて「他行為可能性」があったにもかかわらず、強盗を選択したのでその「責任」が問われる、というストーリーが成立する必要があります。法律に拘らなくても、一般的な意味で彼に対する非難は「自由意志」に基づく選択についての「道義的責任」であるといえます。

 あなたは彼は非難されてしかるべきだと思いますか。それとも非難される余地はないと思いますか。よくありそうな回答は、彼には犯行に至る過程(生まれ育ちも含め)において同情の余地があり強盗を行った理由にもある程度は酌むべき事情があるが、強盗が犯罪だと理解した上で行ったのだから相応の罰は受けてしかるべし、同じように厳しい環境で育った恵まれない人は他にもいるが、みんなが犯罪者になるわけではない、彼は自らの自由な意志に基づいて誤った選択をしたのだから、非難されてしかるべきだ、というようなものでしょうか。

 本当にそうでしょうか。「同じように厳しい環境で育った恵まれない人は他にもいるが、みんなが犯罪者になるわけではない」これは一見事実です。では、どうして他の人は強盗にならないのに彼は強盗になったのでしょうか。「自由意志」による選択が、彼と他の人で違ったから(だから彼には責任がある)でしょうか。彼は強盗を働かなかった人と何が違ったのでしょうか。

 現実的に考えると、彼自身の「想像力の欠如」や「視野の狭さ」とか「無知」が影響しているかも知れません。犯罪だと認識していながら強盗を働いたのは、親分に頼られたから、という素直さや、妹を進学させたいという優しさ、それが動機でした。しかし、強盗が他人を傷つける重大な行為であること、自分は刑務所に入りその後の人生が大きく制約されてしまうこと、捕まれば妹の人生にも悪影響を与えるであろうこと、さらには親分も捕まる可能性が高いこと、これらのことを十分に認識しており、合理的な判断ができれば道徳的判断であれ損得勘定的判断であれ強盗を働くという選択はしないでしょう。罪を犯せば処罰される、という社会の仕組みは、犯罪を抑止して安心して活動できる社会を維持し、ひいては国民生活全体の幸せや発展のために存在しているとすれば、基本的に通常人であれば「犯罪は割に合わない」と思うようにできているのです。それなのに彼がやってしまったのは、何かしら合理的な判断ができない「愚かさ」が根底にあるのでしょう。また、「物事を深く考えない」とか「暴力行為に対する抵抗感の薄さ」とか彼の「人格」自体が反社会的な行動を起こすハードルの低いものだったのかも知れません。仮に彼の「愚かさ」とか「性格」といった実行時点での定性的要素全てを指して「人格」と呼ぶことにします。自らや家族の経済状態、「親分」に「仕事」を持ちかけられたといったその場で彼が置かれた状況自体を仮に「定量的要素」と呼ぶことにします。そうすると、「定量的要素」が同じであっても人によって違った選択をするのは「人格(定性的要素)」が違うからだ、ということになります。

 この「人格」が彼に強盗という選択をさせたとして、「人格」は本人の「責任」なのでしょうか。生まれ持った肉体的精神的特性(遺伝的要素)に、どのような環境で育つか(どのような教育を受けるか)が影響を与えていって「人格」は形造られていき、その「人格」が「自由意志」を行使して行動を選択します。親分に強盗を依頼されたときに、「やる」「やらない」のどちらを選ぶかはその「人格」次第です。「人格」は自分で意識して作れるものではありません(○○という「人格」を形成しよう、と考えてそうした人がいるとして、そのような意志を持った原因は何でしょうか。このように遡っていくと、遺伝と環境にしかたどり着かず、意志は全て遺伝と環境によって作り出されていると考えざるを得ません)。そうだとすれば「自由意志」を行使する「人格」は「自由意志」によって形造られておらず、どんな「人格」になりたいと願うか(または何も願わないか)を決める要素が遺伝と環境以外に見いだせず、「自由意志」だと多くの人が思っているものは全て「コントロール外の要因」に支配されているのであり、そこに「自由」は一切ありません。「自由意志」という概念は当然「自由」の存在が前提であるため、「自由」が否定されれば「自由意志」自体が否定され、「自由意志」の存在を前提として成り立っている「責任」という概念も自動的に消滅します。(この段落がこの記事の主張の核心部分ですが、説明しきることが難しく、客観的に証明すること自体が不可能に近い部分なので、これ以降の章でも繰り返し切り口を変えて提示していきます。)

 では、「同じように厳しい環境で育った恵まれない人は他にもいるが、みんなが犯罪者になるわけではない」のはなぜでしょうか。それは、遺伝か環境に何らかの異なる部分があるからです。遺伝と環境の条件が全く同じ人が二人いたとして、彼らが「自由意志」に基づいて異なった選択をすることが可能であるとすると、彼らはいったいどのようにして「自由意志」の行使の仕方を決めたのでしょうか。これまでの知識や経験でしょうか。いいえ、それらは環境要素なので差がないはずです。性格でしょうか。いいえ、性格を決める要素に生まれ持った遺伝的特性とその後の環境(経験・教育)以外の要素はなく、これも差がないはずです。遺伝と環境以外の要素が「自由意志」を行使させているとしたら、それは「魂」のような存在どころか定義すらできないオカルト的な概念になってしまいます。では、単なる偶然でしょうか。…残念ながら、これが唯一可能性のある答えです。しかし、偶然で変わり得るだけならそれは「自由意志」と呼ぶことはできないでしょう。偶然によって変わり得るかどうかは「自由意志」が存在するかどうかとは無関係です。「意志」とは遺伝と環境によって生まれるものであり、そもそも「自由」に生み出せるものではない(自由意志は存在しない)と考えるのが妥当だと思いませんか。

「自由意志」を否定するなら刑罰は廃止すべきか

 「自由意志」を否定すると「犯罪」が成立しなくなり、刑罰を科すことの根拠が失われてしまうという懸念があります。この章では、「自由意志」否定論者である私がこの問題についてどう考えるかを簡単に述べさせていただきます。

 「自由意志」に基づいた行動(選択)なのだから「責任」があり、刑罰を科される、というストーリーは否定します。それはフィクションであって事実ではないからです。では、犯罪者を罰するべきではないのでしょうか。犯罪者目線に立てばそうなりますが、そもそも法律を含む社会制度というのは、社会がうまく回ってくために(多くの人が幸せに生きられように)存在しているのではないでしょうか。この議論に深入りすると脱線しそうなので、刑罰の話だけをしますが、犯罪者に刑罰を科すのは、犯罪が起こらない安全で暮らしやすい世の中を作るためだと考えてみましょう。「自由意志」がないからといって刑罰を廃止してしまうと、犯罪が増えて治安が悪化する懸念があります。凶悪犯を刑務所に隔離したり教育したりして世の中に対する危険を減らすこともできなくなります。

 「一般予防」と「特別予防」であるとか、社会全体の利益について専門的に論ずる能力は私にはありませんのでそこまでは広げませんが、私の考えの結論だけを書くと「刑罰は、犯罪者が“悪い”から科すものではなく、科した方が犯罪が減り、世の中全体の幸福度快適度効率性などを良い状態に保つために必要な限りにおいて正当化され得る制度」であり、「自由意志」や「責任」とは切り離して成り立たせるべきものだと思っています。すなわち、「犯罪行為を行ったら刑罰が科される」という環境を作ることにより犯罪が起こりにくくなるという事実のみが刑罰を正当化できる根拠になり得るのであって、「責任」の有無は問題にすべきでないということです。

 現行ルールでは「責任能力」の有無で刑罰が科されるかが分かれることがあり、しばしば物議をかもしますが、私は全ての人間は「責任能力」がないとみなしています。では、現行ルールで「責任能力」がないとされる人と、「責任能力」があるとされる人は同じ扱いをされるべきなのでしょうか。必ずしもそうではありません。刑罰が犯罪を少なくする目的で存在しているのであれば、刑罰による「威嚇効果」や「教育効果」が働かないような人に刑罰を科しても意味がありません。そのような人には刑罰を科さないとすると、現行ルールの「責任能力」の有無で分ける運用と結論は近いものになりそうです。

 ただし、刑罰による「威嚇効果」や「教育効果」によって犯罪を抑止されることが期待できない人がいるなら、そのような人を自由に行動させてよいのか、犯罪とされる行為を行っても野放しにしてよいのかという問題は残ります。何か別の方法で犯罪とされる行為を行わせないようにする仕組みが必要かも知れません。場合によっては、強制的な入院や監視など自由を制限することが正当化されるかも知れません。これは、現行ルールでいう「そのような人」と「(潜在的な)被害者」どちらの人権を優先するのかというような議論と近いものであり、「責任」を否定することが必ずしも世の中の現行ルールを全て覆すことに繋がるわけではないことを示唆しています。

「他行為可能性」がないという事実が意味すること

 ここまで犯罪をテーマに「自由意志」について論じてきましたが、これまでの話は犯罪の世界だけに当てはまることではありません。人間が行動を決める要素に、遺伝と環境以外の要素が見いだせない以上「自由意志」が存在する根拠はなく、「自由意志」がないのなら、人間が何か行動を起こす(起こさない)とき「他行為可能性」は常に存在しないため、自分の行動に「責任」を負える人間は存在しないことになります(人の行動の決定に偶然性があるなら人生が予め決まった一本道とまではいえない可能性はありますが、「自由意志」が存在しないという結論は変わりません)。

 山にたくさんの雨が降り、それらが山肌を低い方へ向かって流れていき、やがて何本かの川を経て下流の街に洪水を引き起こし、大きな被害が出たとします。流れてきた水に対して「お前はどうしてこの街に流れてきたのか、おかげでこんな被害が出たではないか、責任を取れ!」という人がいるでしょうか。一滴の水がどう流れ下るかは、降り落ちた地点と周辺の地形で決まるものであり、細かい要素としては気温や風など気象状況などが若干影響するでしょう。いずれにしても、一滴の水が自ら流れゆく方向を決めることはできません。人生は、この「山を流れ下る水」と同じだと私は考えています。

 これを人間ひとりひとりの主観として表現すると、「人生はVR映画を鑑賞しているのと同じだ」と表現することができそうです。VR映画はまるで鑑賞者自身が主人公であり、実際に行動しているかのような没入感を得ることができます。主人公に感情移入し、主人公の体験があたかも自分の体験のような感覚を得られますが、実際には100%受動的に与えられた映像を鑑賞しているだけであり、鑑賞者がそのストーリーを変えることなどできようはずがないのです。「自由意志」が存在しないということは、何かを自分で決めているという感覚自体が錯覚だということであり、何かを選んだつもりが実際には必然的にそれしか選べなかったということです。つまり、私たちひとりひとりには、自らの人生を変える能力は最初から一切なく、与えられた諸条件に基づいた人生を歩まされている(体験させられている)というだけではないでしょうか。

「自由意志」の存在を前提に説明可能か

 「自由意志」が存在しないことを直接証明することは困難なので、これまでは「自由意志」の不存在を前提にこれだけ世の中を説明できますよ、という方向で論じてきました。逆に「自由意志」の存在を前提として世の中を見るとどんな問題があるのか、説明のつかなさがあるのかという方向からも考えてみたいと思います。

 例えば、このような状況設定はいかがでしょうか。一卵性双生児(遺伝的に全く同一と仮定した二人の人間)がいて、二人とも全く同じ環境で育ったとします。つまり、生まれて以降の経験が完全に同じだということです。二人が出会ってしまうと環境要因がブレてしまうので、別々に育てられたが、名前も同じ、出会った人も同じ、食べたものも、かかった病気も全部同じだとします。双子というよりパラレルワールドと考えた方が良いかも知れませんね。その二人が、道を歩いていて落ちている財布を発見したとき、それを交番に届けるか、ネコババするか、違った選択をすることはあり得るでしょうか。

 「自由意志」が文字通り「自由」なものであれば、彼らはこの時点でどちらの選択もすることができるはずです。仮に一方が交番に届け、他方がネコババしたとすれば、遺伝と環境以外の要素が関係していると言わざるを得ません。しかし、その要素とは一体何なのでしょうか。一方と他方が違う思考を巡らせたのなら、その理由は何でしょうか。過去の経験や生まれ持った特性は全て同じなのに、なぜ違う思考が生まれるのでしょうか。一方は「よい心がけ」をしており、他方は「誘惑に負けた」なら、その原因は何でしょうか。二人の思考を分けた遺伝と環境以外の要素について、推測でも良いので何らかの見解が示されないなら、「自由意志」は「魂」レベルの概念であるとしか私には思えないのです。

 尚、次の章で触れることになりますが、ランダム性、偶然性を肯定するならこの二人の選択が別のものになる可能性はありますが、それは文字通り偶然そうなったのであり「自由意志」によって選択したわけではないので、「自由意志」を肯定する根拠にはならないと考えられます。この二人が宝くじを買ったとき、その結果が同じになるわけではない、と言っているのと同じことだからです。

「決定論」との関係

 またしても言い訳の段落になりますが、私は「決定論」が「哲学」の話のなのか「物理学」の話なのかすらわかっていません。従って、これまでどのような議論がされてきたかを踏まえて語ることはできません。ただ、「自由意志は存在しない」というと、では「決定論を支持する」ということか、と聞かれることが多いので、そう聞かれた時の回答をまとめておきます。

 私は、「決定論」とは現在また将来起こる出来事は全て先行事象によって決まるという考え方だと認識しています。また、私の「自由意志」についての認識は「人間の意志は遺伝と環境によって決まり、自由意志は存在しない」というものです。これは事実上「決定論」と同じであり、概ね「決定論」を肯定する立場であるといって良さそうです。「決定論」を巡る議論の中には、完全に過去から未来までの出来事が一本道で確定しているという見解もあれば、確率論的な要素(ランダム性)が存在するため将来の状態は現段階では確定できないとする見解(これは「決定論」を否定する立場か?)もあるようです。

 ただ、私は「自由意志」の存在を否定しているだけで、「決定論」が正しいか間違っているかについてはあまり考えていませんし、興味もありません。もし、確率論的な要素が存在するとしても、それが人間の「自由意志」によって制御されるものであることが示されなければ、人間が「自由意志」による選択により何かを変えることができるという結論に至ることはできません。感覚としては、世界は「決定論」的であり、確率論的な要素だと思われていることの多くは、その決定過程を解き明かせていないだけで実際には先行事象から確定することが多いのではないか(天気予報では翌日の天気を確率で予報しますが、全宇宙の事象を観測可能であれば翌日の天気を正確に予測できるようになると考えています)と思っていますが、確率論的な要素があってもなくても「自由意志」が存在するかしないかという議論に直接影響することはないだろうと思っています。

「自由意志不存在論」は「不都合な真実」なのか

 「自由意志」が存在しないという前提では世の中が成り立たなくなると考える人もいるでしょう。そのため、一種の危険思想やタブーのように扱う人もいるでしょう。しかし、「自由意志不存在論」は、今の世の中の制度や仕組みの多くを否定することなく成り立ち得るものであり、両立しない部分は主に世の中の非合理的な部分になるだろうと思います。刑法の議論にしても、根本から論理が覆るものの、理由付けが変わるだけで結果的に妥当であるとしてたどり着く制度としては現行のものとさほど変わらない部分が多くなると思われます。

 昔、世の中の大半の人が宗教を信仰していて、宗教が社会制度や道徳基準そのものとして機能していた時代に「私は無神論者である」と宣言したら、とんでもない無法者だと思われたことでしょう。しかし、世の中の様々な制度が宗教の存在を前提としなくなり、宗教自体には興味がない人が多くなっても、それによって多くの人が道徳心を失ったり、社会が荒廃したりということはなかったはずです。失われたものがあるとしたら、存在意義が「宗教」それ自体であった制度や慣習であり、それは世の中がより合理的になったということではないでしょうか。「自由意志」も宗教的信念に近いものかも知れません。それが否定されても、社会にとって必要な制度は本来の存在意義を問い直された上で残るか、より合理的なものに変わっていくのでしょう。そのような意味で「自由意志不存在論」はタブー視すべきものではないと思います。

 個人の目線から考えると「自由意志が存在しないなら、努力すると決意して人生を良い方向に変える」というモチベーションを持ち得なくなるのではないか、という懸念を持つかも知れません。しかし、まず確実なことは「原因があるから結果がある」ということであり、努力することで何らかの結果が発生するということは「自由意志」が存在するかどうかとは全く無関係です。あなたが今自転車に乗れるのは、過去のどこかの時点で練習したからではないでしょうか。何度も転んで、膝小僧を擦りむきながら頑張ったから今自転車に乗れるのです。「自由意志」が存在しないなら努力するのは意味がない、と思う人がいるとしたら、それは盛大な思い違いです。ただし「自転車に乗る練習をしよう」という意志は、遺伝と環境にたどり着く原因と結果の世界で生まれたものであり「自由意志」による決断ではありません。「努力」そのものの価値は変わらないが「努力しようとする意志」は自力で生み出せないという理解になります。  

 では、人はなぜ「自由意志」が存在すると感じているのでしょうか。これは全く根拠のない想像ですが、人は「自分で決めた」と思い込むことによって意志が強くなり、強い意志が何かをやり遂げる上で有利に働くからかも知れません。そう考えると、やはり「自由意志」は宗教とよく似ています。それを信じたい人が無理に放棄する必要はなく「自由意志教」の信者として生きていくのは自由です。ただし、それは宗教ですから、他者に押し付けることは許されませんし、社会制度が「自由意志教」に基づいたものであってはならないと思います。政教分離のように「自由意志教」と政治や法律、社会制度が切り離され、真に合理的な世の中に近づいていくことを私は願います。

「自由意志」の否定が何をもたらすか

 「自由意志」の否定が世の中全体で受け入れられた場合、実際に社会がどう変わるかは前の章で述べた程度しか考えが及んでいませんが、論理的には「自由」がないことにより「責任」が成立しなくなり「自己責任論」が正当性を失うでしょう。というより、実際には「自己責任論」というのは世の中の不具合のしわ寄せを受けている人たちを罪悪感なく切り捨てるための方便として使われていた部分が大きいはずで、それが不合理で無意味なものであることを認めざるを得なくなると思います。

 個人としては、他人に対する考え方が変わるのではないでしょうか。人は誰も「責任能力」がないという前提に立てば、誰かを恨む気持ちが虚しいものであると理解できるかも知れません。自分に対しても他人に対しても「責める」という感情から離れやすくなります。現に私はかなりの程度人を「責める」感情を抱かなくなりました。これは「赦す」ことよりはるかに容易なことです。もちろん、ネガティブな感情が全て消えるわけではないですし、私もストレスになる人や危険な人からは離れますし、悪くいうこともしばしばあります。ただ、それは本人の「自由意志」ではなく、遺伝と環境がそうさせたとしか思いませんので、人に期待もしないし失望もしないし「責める」気持ちも無駄なものだとしか思っていません。みんながより幸せになるためには、そういう環境を作っていかなくてはならない、解決策はそういう方向にあるものだといつも思っています。これは物事は客観的に見るべきだし、解決策は常に合理的であるべきだということであり、感情を失うことを意味しているわけではありません。嬉しかったり悲しかったり怒ったりはしますが、その状況を評価し直しているのです。

Q&Aコーナー

 さて、今表現できることは全て言語化してあるつもりですが、本文は同じことを繰り返し述べていたり、話の展開がわかりにくい部分も多々あったと思います。また、全部は読んでいないが疑問や反論したいことがある方もいると思います。この内容についてありそうな質問について、予め想定問答を付けておきます。

Q1.自分の人生を自分で良くしていくことはできないのですか?

はい、できません。意志はコントロール外だからです。ただ、あなたが「自由意志不存在論」を受け入れた場合、例えば感情論から離れるとか、より合理的な行動をするようになるかも知れません。それにより人生の質が高まる可能性はあります。それは、この思想に触れたことが、環境要因としてあなたの人生に影響するからです。

Q2.犯罪者を非難するのは無意味なことですか?

はい、基本的にはそうです。「自由意志」の否定は「責任」の否定です。ただ、世の中で犯罪が非難されるという環境要因が犯罪の抑止力として機能している側面もあるのは事実だと思います。犯罪を抑止する仕組みとして、非難より優れた何かがないか?は考えていきたいところです。

Q3.人生は「親ガチャ」ですか?

少し違います。人生は「遺伝ガチャ」と「環境ガチャ」の組み合わせで決まります。親はその双方に大きく関係するので、「親ガチャ」という感覚は相当程度正しいとは思いますが、環境は親由来以外の要素もたくさんありますので、子の人生の全てが親で決まるとはいえません。

Q4.大人は自分で環境を選べます。どんな環境に身を置くかが重要なのでは?

それ以前の問題を論じています。そもそも、あなたがどんな環境に自分を置こうとするかを自分で決めることができない、というのが「自由意志不存在論」です。

Q5.「自由意志」が存在しないとしてもその思想は有害では?

事実に基づいて、より合理的な社会へ変わっていくなら、有益だと思います。

Q6.全てを諦めるしかないということですか?

「諦め」が何を指しているかによりますが、例えば努力を放棄することはおすすめできません。本編で述べたように「練習したから自転車に乗れるようになる」というような因果は何ら否定されないからです。もしこれを読んで努力を放棄する人がいるとしたら、それは元々その努力を辞めたいと思っており、理由を探していただけではないでしょうか。これを読まなくても同じことになっていた可能性が高いと思います。もちろん、これを読んだことが環境要因として作用すること自体は否定しませんが…。

Q7.で?結局どうしたらいいのですか?

それを今考えているところです。今の段階で言いたいことは、感情論に振り回されるべきでないこと、合理的に考えるべきだということ、「責任」を振りかざした追求に意味がないことを認識して欲しい、というくらいです。私としては、まだ「どうしたらいいのか」は考えていません。

Q8.投資は「自己責任」ではないってことですか?

「投資は自己責任」の意味するところは、単に「投資の結果は本人に帰属する」ということです。この記事でいう“責任”はもっと根本的な部分で、敢えていうなら「投資で失敗したら結果は本人に帰属し、誰もそれを補填してくれないけど、本人の“責任”というわけではない」という表現になると思います。私がいう“責任”が一般的にいわれている「責任」という言葉と包含している範囲が違うように思います。そういう意味では“責任”という概念が何を意味し、どう機能しているかについて検討して、切り分けないと誤解が発生しそうですね。いずれは別の言葉で表現するようになるかもしれません。

Q9.「自由意志が存在しない」という主張も自由意志ではないということでしょうか?

はい、そうです。私が「自由意志」はないと考えたことも、それを記事にしたことも「自由意志」によって選択した行動ではなく、遺伝と環境による必然でしかない、ということになりますね。

あとがき

 私はこの記事を書いたことにより、自分の思想をかなりの程度言語化することができ、その点には満足しています。ただ、言語化できたのは「私が世の中の原則をどう見ているか」という部分だけであり、これは実はまだ表面なのだと思います。これから引き続き言語化していくべきことは「だから、何?」という部分です。そう考えるに至った背景は何か、このことに拘るのはなぜか、どうしてこの思想を必死に表現したい気持ちになるのか、何を実現したいのか、具体的に世の中にどうアプローチしたいのか。こういった部分を深堀りして言語化していくことで、自分の価値観をより深く知ることができ、生き方の方針が一貫し、人生により意味を感じられるようになると信じています。

 「自由意志」を信じている人からすると不快であったり、意味不明であったりしたと思います。反論や否定的な意見も大歓迎です。同じ結論に至らなくても、どんな自分と異なる思想があるかを知ることは、先に進む手掛かりになるからです。ここまで読んでくださった全ての方に感謝いたします。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です