「低資産でもFIREしたい!」VS「そんな人生何が楽しいの?」
目が覚めるまで眠り、気が向いたら外を散歩し、家で本を読んだり映画を観たり…。決して裕福ではないし社会的な地位もないが、誰にも縛られることなく“月曜日”に怯えることもなく、ただただ平和で穏やかな日常が続いていく…。これほど素晴らしい人生があるだろうか。ストレスに耐え、心身を削って高みを目指す必要なんてどこにあるのか。これこそが私の本当の幸せだ…。
人生の質は努力と成長によって向上していく。何かを求めて生きるのでなければ、それは生きていることにならない。頑張るのは結果だけのためではなく、結果を求めて試行錯誤すること、それによる成長、自分の幅や深みを増していくこと、それ自体に価値がある。幸せは自らの存在意義を作っていくことによって勝ち取るものであり、面倒なことや苦手なことから逃げ続けた先になどない。
あなたはどちらの考えにより近いでしょうか。あるいはどちらとも全く異なる考えをお持ちでしょうか。ここ数年、それほど多くない資産で仕事を辞め「FIRE」生活に入りたい!と切望する人をよく見かけます。一方、そういう希望に対して批判的な意見も見かけます。私から見て、それぞれどんなことを考えているように見えるか、そこにどんな社会の構造があるかを考えてみました。尚、読んでいただけたら分かると思いますが、私は基本的には前者への共感が強い人間です。自分が会社員時代に考えていたことも思い出しながら書いていきたいと思います。
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「低資産」とはどのくらいか?
なぜかFIRE界隈では言葉の定義で度々揉め事が起こるようなので、最初に決めておきます。あくまで世間での定義がこうであるとか、こう定義すべきだと主張するつもりはなく、今回の考察のために仮にこう定義させていただきますね?というものだと思ってください。「低資産」とは、普通に考えたら資産運用による所得だけで生涯暮らしていくのは不可能、または現実的でないギリギリの生活レベルでも成り立つかどうかという水準をいうことにします。年齢や居住地、生活レベル等様々な要素で変わるものなので一概には言えませんが、年金受給までかなりの年数があり、自宅を所有していない状態で金融資産3,000万円以下でFIREしようとすればそれは「低資産」だということにします。
トリニティスタディという有名な研究があり、そこから年間支出の25倍の資産があればFIREできる(運用利回り-インフレ率=4%と仮定)という見解もあります。それをそのまま信じれば、3,000万円の資産があれば120万円の生活がずっと続けられるという理屈になるのでそのあたりを目標とする人もいるかもしれません。私はこの仮定には明らかに無理があると考えていますが、いくらあればFIREできるかはこの記事のテーマではないのでこれ以上触れません。要は、生活費を抑えつつ安全性という意味でもギリギリでいいからFIREしたい!(退職したい!)と切実に願う人たちとそれを批判的に見る人たちの違いについて考えたいということです。
「働きたくないでござる!」
日曜の夜になると憂鬱になる、毎朝通勤電車の中で「宝くじが当たる妄想」で現実逃避をする、ついには土日もまもなくやってくる平日の足音が気になって楽しめなくなる、そうなってしまうのはなぜでしょうか。
会社員として働くことに伴うストレスは「仕事の内容」に起因するものだけではなく、より本質的には、誰かに雇われて組織の中で働くこと、逃げられない人間関係、経済的に支配されている状況(給料を貰わないと生きていけない状況)が引き起こしています。仕事の内容が嫌な人は、社内での異動とか転職で悩みが解決する可能性があり、いきなり様々な不安やリスクを受け入れて低資産でもFIREを目指そうとは思わないでしょう。FIREしか道がないと思うのは、転職などでは自分の悩みが解決しないと認識しているからです。
ひとつの重要なキーワードは「安心感」だと思います。簡単にいうと夜、安心して眠れるかどうかです。会社では常に能力の向上を求められますし、何かの仕事をやり終えたら、別のさらに面倒な仕事が与えられます。仕事をやり遂げた報酬はより重い仕事なのです。会社というのは利益を追求する使命を負っています。従業員にいかに量的にも質的にもよいアウトプットを生み出させるか、それが会社の関心事です。もちろん、従業員が疲弊して健康を害したり、辞めてしまっては困るので手加減はするのですが、手を緩め過ぎたらみんな楽をしようとしてその会社ごと沈没します。悪い言い方ですが、従業員が潰れないギリギリまで頑張らせる会社が「いい会社」なのです。従業員に「来週はどう仕事を進めようか」と週末も考えさせ「安心」させないことです。「休み」は「仕事」のために存在するにすぎず「階段の踊り場」のようなものです。
個人としてこのような「雇われ」状態を乗り切っていくためには、うまく自分のメンタルをコントロールして「会社はプレッシャーをかけてくるけどそんなもん知るか!」とある程度のラインで線引きをして、それなりに頑張りつつも無理をしないでやり過ごしていく「適当さ」が必要です。何でも真に受けていたら潰れてしまいます。ただ、会社はそういう「適当さ」レベルに差がある従業員たちに対してひとりひとりの「適当さ」レベルに合わせて制度やマネジメント方法を変えるのは難しいため、ある程度最大公約数的な運用をせざるを得ません。その結果「真面目」すぎたり「気分転換が苦手」だったり「断れないタイプ」だったりする人が、いわば「社内弱者」になって常に強いストレスを感じてしまい、働くことを辞めないと救われない「働きたくないでござる!」という精神状態に陥ってしまいます。
「本当にやりたい仕事なら頑張れるのではないか」「業務遂行能力が低いからではないか」などの意見もあると思いますが「会社は従業員の能力を最大限発揮させようとする」ことに「適当に」対応できないのが根本原因であり「適当さ」を身に付けるか、会社員を辞めるしか解決方法はないと思われます(見てきた経験上、そういう意味での「社内弱者」は会社や他の従業員にとって好都合でもあり「適当」に変わろうとすると周囲は阻止してくるため)。
これをもっと前向きかつ根本的に(実質的には建前的お説教になりますが)解決する方法は、やはり「やりたいことを仕事にする」ことだと思います。雇われ労働がきつくても、それが自分が目指す何らかの理想のために必要な過程だと認識していれば、充実感を得ながら取り組むことができます。ただ「そこまでやりたいことがあるわけではない」という人が多数派であり「やりたいことがある」自体がある種の強者性とも考えられ、響きにくい主張でしょう。
繰り返しになりますが、大抵の人にとって雇われ労働のきつさは「適当さ」や「開き直り」の程度で決まり、“真面目”な「社内弱者」は仕事を辞めることでしか救われない、と考えるようになりがちということです。
人生に“意欲的な”人たちから見たら「FIRE願望」は低レベル過ぎて理解できない!?
これに対して、意欲的に生きている人たちは「努力」と「成長」で「理想」を追い求める生き方を王道と考えており「FIRE願望」は「志」がなく、実際どう魅力的なのか理解できないのだと思います。「FIRE」して大した資産もなく節約生活、仕事もせずに暇つぶしにしか見えない娯楽をやって時間も体力も空費するような人生なんて「虚しさ」や「退屈」を感じ、希望を持てないと見えることでしょう。若くして低資産でFIREし、その後経済的に何とかやっていけたとしても、同じようなつまらない日々が延々繰り返されるだけで「人生のボラティリティ」がほとんどなくなり、(大きな喜びをもたらすような)イベントは発生しなくなり、老後の“余生”だけで占められるような人生とは一体?と思うのです。
しかし、これ自体が“意欲的”に生きている人たちが「強者」であり「弱者」の気持ちがわかっていないのに自分たちが正しいと思いすぎていることを示しています。「強者」「弱者」について詳しく語ると「自由意志論」の続きになってしまうのでここでは割愛しますが、どちらも相対的なもので、みんなが「強者」になることはありません。その意味で「弱者」側になってしまった場合「強者」になろうとするより勝負から降りることの方に希望を抱くのは合理的な判断になり得るのです。「頑張ることがより良い人生を造る」という説は「弱者」側から見たら生存バイアス的な要素があり、割に合わないと考える人たちがいることはおかしなことではないのではないでしょうか。
「強者」側からは、無理な頑張りで潰れていった弱者はあまり見えておらず、「弱者」側は自分がそうなる危機感や絶望感をより強く意識するため「弱者」のままでいいから「人生のボラティリティ」を小さく固定し(ボラティリティといってもダウンサイドリスクを強く意識しており、実際良くなる要素が見当たらないと考えている)たいという一見極端な願望に繋がるのです。正社員として働くことをやめるのは「人的資本」の放棄であり、デメリットが大きいという見解もありますが、心身を壊して軽い労働すらできなくなる方が「人的資本」の毀損度合いは大きく、その点についての評価の差も「FIRE」に対する評価の差になっていそうです。
「頑張ること」のリターンとリスク
「いい大学を卒業した方が良い会社に就職でき、より高度で稼げる職業人生が送れる」という命題が仮に正しいと考えたとき、みんなが受験勉強を頑張るべきだ、という考えは一見正しいように思えます。しかし、受験勉強の適性は人によって異なります。東大に入学できる学力に達するために必要なコスト(労力など)が50の人もいれば100の人もいるのです。人によってはそもそも不可能という場合もあります。これは受験勉強が絶対評価だとした場合の話ですが、実際には相対評価なので、自分より適性の高い人に勝つのはより困難なことで、そういう人はいい大学に行く以外の方法で自分の人生を良くする方法を探そうとするでしょう。
社会においてもそれと同じで、働くことに対する適性が高い人と低い人では合理的な戦略が違っていて、その極端な例の一つが「FIRE」論争ではないでしょうか。
「FIRE」したい人は本当に「働きたくない」のか
低資産で「FIRE」を目指す人は、資産が尽きることが怖くないのでしょうか。そんなことはないと思います。資産が尽きて「再就職」したいとは思わないはずです。しかし、彼らは絶対に働きたくないと思っているのではなく、生殺与奪を雇用主に握られている状況を嫌うのであり、いつ辞めてもいいと思いながらする仕事や、精神的な負荷の高い(責任ある)仕事でなければ別に全然かまわないと考えている人も多いようです。これも受験勉強の例えと同じで、責任の小さな業務は報酬も少ないですが、彼らにとって正社員的な働き方で負担するコストは高いので、低い報酬で短時間しか働かなくてもいい状況を作りたくて正社員を辞め「FIRE」したいと願うのです。
実際のところ、会社を辞めるまでは「辞めたい」という強い思いだけがあり、辞めたら二度と何の労働もしたくないと思っている人もいるでしょうが、実際辞めてみるとお金とは関係なく、少し働こうかな、とか、何かボランティアとか社会とかかわる活動をしよう、と思い始める人も少なくないでしょう。
「平和な日々」の価値は「戦争の記憶」に比例する
戦場で銃弾が飛び交う中で過ごした日々、いつ頭上から爆弾が降ってくるかわからず震えながら眠った夜。その経験がある人だけが、何もない「平和な日々」の幸せを一生嚙みしめ続けることができます。私のように戦争を経験していない人は、その感覚を自分事としては理解できません。しかし「働くこと」を「戦争」に置き換えられるほど辛い思いをしていた人にとってはそうではないと思います。“月曜日”への恐怖を抱く必要がない「平和な日常」の素晴らしさを毎日毎日噛みしめるだけで幸せを感じられる人は、そのような人かも知れません。「FIRE願望」の強い人と「何が楽しいのかわからない」という人のギャップはそういうところにもあると思います。
今回は私自身が「FIRE」をどう評価しているかは可能な限り反映させずに書いてみました。結論を簡単にいうと「働くこと」と「働かないこと」のリターンとコストへの評価の違いが見解の差になっているのだという当たり前すぎるお話でした。